北大で身につけた「自ら考え抜く姿勢」が活きた

北海道大学農学部への志望動機

中学生3年のときに覚えた最初の単語が、クラーク先生の”ambitious”でした。これが北大を強く意識するきっかけとなりました。中学を卒えるにあたって、終戦直後の時代背景もあって、食べるものへの欲求や、食料の増産は何よりも大事であるという考えから、予科の中でも、農学部への進学が中心となる農類を希望しました。中学生のとき、終戦の年(昭和20年)のほぼ一年間を、学校の援農作業として空知の北村(現・岩見沢市北村)に滞在したことも大きな動機です。この年は、稲刈り時に雪が降るほどの冷害年でした。こういった経験も、食料の大切さを感じ、農学を志す動機につながっています。

農業経済学科への進学理由

予科卒業時には、体調があまり良くなかったこともあって、担任の先生とも相談して、座学が中心の農業経済学科に進学することとしました。技術ではなく、農業経営の点から農学部への志望動機を実現しようとしたわけです。

ここでよかった!今の仕事につながる研究内容

昭和22年4月、17歳のときに、旧制中学を4年(標準は5年)で修了して北海道帝国大学予科に入学しました。予科に初めて女子学生(3人)が入学したのもこの年です。翌年の予科入学生は、2年生になるときに新制・北海道大学の1年生に振替となったので、私たちが予科最後の学生となりました。当時の学制は、予科3年を経て大学に進学し、3年で卒業する制度でした。予科は、年齢的にも今の高校生から大学2年生に相当していることになります。北大に今も根付く寮歌「都ぞ彌生」や学生寮(恵迪寮)は、そもそも予科の学生たちのものだったのです。

予科に入って一番の衝撃は、いきなり英語で講義が始まったことです。英語の講義ではありません。数学の先生が英語で授業をするのです。当時の数学のノート、これ、板書が英語だけでなく、先生の説明も英語です。講義の内容も難しいし、説明も英語だし、食らいついていくだけで、とにかく必死でした。まぁ、後からはちょっと日本語も入ってくるんですが。

数年前までは戦争が全てで、将来の目標なんて持てない時代です。戦争が終わって予科に入り、予科最後の学生ということもあったかもしれませんが、先生方は一生懸命教えてくれました。本当に幸せでした。こうした時間を与えてくれた予科も、私たちの学年を最後に、昭和25年3月に閉校しました。

4月からは、農学部農業経済学科に進学しました。当時の大学の先生というのは、授業を始めて、いきなり難しいことを言い出します。多くを語らず、説明なしで授業が進んでいきます。先生方は気軽に話しかけられる相手でもなく、また、自分たち学生も「分からない」「知らない」なんて言えない雰囲気というか、気持ちが強かったので、とにかく必死になって食らいついていきました。講義には必ず出席しました。それでも分からないことは、一人で考えても手におえないので、図書館で文献を探して読むわけです。必要な箇所は、コピーなんでない時代ですから、手で書き写します。

卒業論文は、農業経営学の渡辺侃教授の下で、酪農経営に関する研究を取りまとめました。内容もさることながら、渡辺先生を細かな点で煩わせないように、注意深く取りまとめました。完成した卒論を提出すると「キミの論文は良くできている」と言っていただけたのが、何よりの嬉しさでした。当時の教授陣は多くを語りませんから、この一言をもらうだけで十分なのです。

NPO法人北海道有機認証協会

現在は、NPO法人北海道有機認証協会の理事長を務めています。法律や国際規格に基づいて、農産物などに「有機」表示ができるための認定業務を行っています。

インタビュアーから

前木氏は昭和6年(1931年)のお生まれで、83歳(2014年11月現在)です。現在は、これまでの経験を活かして、北海道有機認証協会の理事長を手弁当でお務めになっています。本稿は、前木氏へのインタビューに基づき、農業経済学科・中谷朋昭の文責で取りまとめました。長時間にわたるインタビューに快く応じていただいた前木氏に、厚くお礼申し上げます。

前木氏は、北大正門そばにある石碑建立に際して、事務局長としてご尽力されました。この石碑は、前木氏を始めとして、大志を抱いて多くの若者が集った北大予科を記念するものです。石碑北側(裏側)には、白線三本に予科の帽章からとった桜星章(予科校章)が刻まれています。石碑を見学の際には、案内板とともに、こちらもご覧になることをおすすめします。

これから進学する皆様へ

昭和28年3月に、旧制大学最後の学生として農業経済学科を卒業し、北海道立農業試験場経営部に就職しました。この当時、食料増産と戦災者などの救済を目的として、緊急開拓事業が行われ、北海道内には多くの開拓集落がありました。こうした集落に調査に行くと、試験場が発行した「農業経営の手引」がトイレットペーパー代わりに吊るされているんです。実際の開拓の現場では、整った経営条件のもとで作成された手引は役に立たないから。でも、開拓農家の経営指導をしなければならない。そこで、開拓農家の置かれた状況をつぶさに調べ、何ができるか、現場に適応した方策を考えるわけです。このとき、予科や大学時代に身につけた「自ら考え抜く姿勢」が役に立ちました。大学卒業から60年を振り返ると、さまざまな場面で考えぬいた経験に助けられてきました。教わることも大事ですが、学生時代には、ぜひ「考え抜く」経験をしてみてください。


農学部正面にて。「この眺めは、昔と変わらないね。いつまでも残して欲しいよ」とのこと。

英文で記された予科入学当時のノート。

学生時代の面影が残る農業経済学科多目的室で、当時の教科書を見ながら想い出を語る前木氏。

予科閉校記念別離会(1950年3月30日)会場前にて(右端が前木氏)。別離会終了後、大勢が狸小路に繰り出し、先輩・後輩入り乱れての惜別ストームとなった。