
写真は、シーボルトが描いた日本農具の図
右上から下へ:鍬2丁、馬鍬、中上:足踏み水車、
左上から下へ:唐竿、鋤、臼、千歯
これらは、実用性あり。
中央下の犂類は、ほとんど実用性が無かった。
日本在来農具の状況
農書として著名な「百姓伝記」は著作年代が明確でないばかりか、明治期まで刊行されずに私家本に止まっているが、およそ1680年頃の愛知三河の実状を述べているとされ、我々に300年前の状況を紹介してくれる。その5巻農具小荷駄具揃を日本農書全集(農文協刊)で見ると、5巻全体は49頁に記載されながら、簑笠や馬具類の記述が多く、田畑で作業に直接用いる農具は22頁に止まる。さらに記載される農具は、慣行の名称で数えて20種以上となるが、内容は鍬・鋤・唐鍬の鍬類で40%の頁を使用し、次いで鎌の25%と次項の犂と馬鍬が25%を占めて、残り10%が砕土・灌水用具と手用具になる。鍬類と鎌をいかに重視していたかが示される。
農具を扱った農書では大蔵永常「農具便利論」を上げねばならないが、その挿し絵は中高校の歴史教科書に掲載され、本の題名は知らなくとも絵を見れば誰もが思い出す程に著名である。これは200年前の将軍家斉の頃の農具を網羅して1822(文政5)年に刊行されるが、1900(明治33)年頃まで再販を重ね、当時でも農具を知る上で必須の本であった。特に「諸国を遍歴して此方彼方にて数多の農具を見聞した」ものから「便利なる農具を選次した」本書は、鍬や鋤でまとめた上巻、播種以降収穫までの中巻、灌水機器の下巻に分かれ、かつ、馬鍬や唐箕など地域差のないものを省いているが、約40機種の構造から製作法まで述べて「梓にゑりて世に広めん」とした趣旨に添った内容である。しかし、元禄時代に開発された千歯を掲載して前者の百姓伝記と違いを示す他は、ほぼ前者同様に鍬類を中心にして書かれている。
なお、両本とも耕起用の畜力犂を収録しているが、百姓伝記が「犂は修練しなければ使えない」「慣れない人が使うと作物がよくできないか、育ちがむらになる」と指摘するように構造が未発達であるため、諸大名は年貢確保の観点から普及策を採らなかったと思われる。そのため人力に代わって畜力犂が普及するのは、工業技術が広く定着する1910(明治43)年代を待たねばならない。
このように日本農業は、鍬類と鎌による人力作業を中心にして、精度の高い耕作を行って高い収穫量を確保していたため、後年に「畜力を用いない世界に希な農業」とか「鍬一本主義」と総括される。したがって、北海道開拓に畜力機械化を採用したのは、入殖者に未経験な新開地で広大な面積の畑作地帯であったことと、開拓実績の豊富なアメリカに指導を仰いだことにあるが、入殖者ばかりか日本農業にとっても革命的な出来事と考えられる。
ケプロン時代の作業機
明治維新を迎えて海外文化の導入が盛んになるが、農業でも作物や果樹から農具まで多くを輸入した。今、農具だけを見ると府県向きにはスコップや草を削るホーなどを多量に輸入し、全府県に配布して使い勝手を調査している。しかし、今聞くと不思議ながら「スコップは土を掘るには使い難い」などの報告が多数を占めて普及に至らなかった。所蔵する標本から理由を考えると、大工道具のカンナを例に言われるように外国が押す力を、日本は引く力を利用する基本動作の違いと、体格の大きな外国人に適したハンドルが日本人には太すぎて掴み切れない点などが推定される。したがって、前述の犂と同様に国産農具が実用化されるのは、国内産業が充実する1910(明治43)年代まで待たねばならない。

一方、北海道開拓史はケプロンらの指導によって畜力作業機を導入し、1880(明治13)年から馬とプラウを入殖者数戸に1組ずつ貸与するまでになる。上の農具の写真は、北海道開拓使の東京官園で1872-3(明治5-6)年に撮影されているが、ケプロンが来日する際に持ち込んり、その後輸入した農具類を全て記念写真に撮り、その後北海道に送って実用化試験をさせていたようである。どの写真にも写っている人が西欧農具の取り扱い教師である。これら見慣れない農具を与えられても、府県並の反論がなぜ出なかったかが疑問になるが、職を失った武士階級が初期の入殖者に多かったことと、稲作農業の経験を持って来た農民でも稲作が禁止された状態では指導者の言うことを聞かざるを得なかったことなどが理由と考えられる。このような経過から、札幌農学校第2農場では、一層高度な技術を普及する必要が生まれ、ブルックスの提案を開拓使が受け入れて膨大な農具を輸入することになる。

ブルックス時代の作業機
上の写真は、1900年に撮影して札幌農学校学芸会編「札幌農学校」に掲載されたものである。当誌は、流暢な文体で札幌への道のりと北海道の紹介をして札幌農学校を一躍有名にした本として知られるが、帝国大学への昇格運動の一環として出されたと考えられるため、最先端の農機具を第1農場事務所の前庭に並べて装備を自慢したと解される。後方の事務所は、当時農事部事務所として建築されたが、昭和40年頃まで現存した「旧大学本部の厚生課」の建物であるから、撮影者は現在の南門の辺りにいる。前庭の農機具は、前後3列に延べ36機種が並べてあり、一つとして同じものはないし、右の中間列にある唐箕を除いて、主にブルックス教授が手配した輸入機種である。これらは、右後方の大きな作業機を除いて現在も全て保管されているため、それぞれの機種が明確になる。保存されなかった大型機は、大木の下の薪の山積み左前にある畜力機で、傾斜したコンベヤの上に牛馬を乗せると、斜面のためにずり落ちるようにコンベヤが回り、回転動力が取り出せるものである。もう一つ保存されなかった機種は、薪山の右前にあって麦類を脱穀・選別するスレッシャーであり、当時の最も最先端を行く大型機械である。これらができなかったのは、大き過ぎて屋根裏等に入らなかったものと推定される。
最前列は耕起用のプラウと心土犂が14機種あり、前列左端と中央列に砕土用のハロー類が5機種、後列左から播種用のプランター、ドリル、中耕用のカルチベータ、麦類収穫用のリーパーと続き、その右に唐箕や飼料細断機などの調製機類が6機種並んでいる。
一方、在来日本農具を見ると、脱穀機、籾摺り機、耕耘の基本になる和犂、そして北海道で水稲直播のタコ足など、いずれも昭和30から40年代まで日本稲作の中心機種となる農具類は、この写真が撮られた後に特許申請がなされ、明治末から大正期に急速に普及することになる。したがって、その頃でも冒頭の江戸時代と同等の人力「鍬一本主義」が現状であるから、札幌農学校が所有していた農具類は国内に異彩を放っていたと言うことになる。
農機研究室による収集標本
時任教授が収集した150丁を越える全国の鍬・ホーク類は、日本農業の基本農具として貴重な価値があるばかりか、同じ場所に並べて明確になることであるが、それが地域の慣行や土地条件によって如何に変化するかを如実に示すものである。なお、その任期中の第1次世界大戦の時、オホーツク海を航行するソ連行きの輸送船を臨検して押収した木製の堆肥散布機がある。これらは珍しい農機具として大学・試験場に配布し、日本農業の発展に役立つようにとの指令を受けて研究に供したが、その国産化への貢献度は明らかでない。
農業機械研究室の初代教授常松栄が収集した200台に上る国産プラウとカルチベータは、今日のトラクタープラウを考える上で不可欠な資料である。また、常松と後任教授の岡村俊民の収集品を合わせて、ハンドトラクター、ティラーや耕耘機類と、一連の稲作用の農機具が揃うが、今日のトラクター機械化の初期の基本的標本と考える。特に、今日の稲作は田植機と自脱コンバインに代表されるが、これらは1965(昭和40)年頃から開発・普及されて、今でも30年にも満たない機種であるが、社会情勢からメーカーですら保存していないため、すでに貴重な資料になっている。
輸入技術を府県に伝えるために貢献した下総御料牧場は、札幌農学校と同等の装備を揃えて最新の作業を行っていたが、今の成田空港を開設する際に宇都宮市北方に移転させられ、自慢の装備は10数点を残して全て廃棄された。札幌農学校第2農場保管の農具標本は、明治維新の畜力機械化に始まり、今日のトラクター時代に至る機械化発展過程を示す国内唯一の標本群である。