農機具標本の概要と保存の契機


クラーク博士の手紙
 札幌農学校の開校に当たってクラーク博士は、農業教育には実践が必要として、現在の札幌キャンパスを包含した「札幌官園」を農学校の「農黌園」として移管を受け、「第1農場」は学生の教育と研究用とし、「第2農場」は日本人になじみのない畜産経営の実践農場とした。
 左の図はクラーク博士が開校日の3日後である1876年9月17日に発信した手紙(北大図書館蔵)で、原文は3頁にわたっているが、図には冒頭と末尾のみを引用した。掲載省略部分を含めて44種154点の農機具が書かれ、その末尾の署名直前には「List of vecles and implements requred with the sapporo agricultural college farm」と記し、圃場の移管と共に作業用の農具を移管するよう要請した文である。これを受けて札幌官園は29種147点を移管し、7種7点を貸与した。これら移管農具には1872-74(明治5-7)年の輸入農具が多くあり、それには「官園」の焼き印が押されて区別されるが、確認できた機種は10余機種である。この他、人力用の鍬・播種機・中耕機などが該当しそうである。これらはケプロンらの指導によって導入されたと考えられるため、ケプロンものと呼んでいる。


ブルックス教授の活躍
 ブルックス博士は、1877(明治10)年2月に若干25歳で着任して農学系講義と実習をすべて担当し、農学校のお雇い外国人の内で最長期間となる12年間も滞在した。その間、農場長と教頭になって書籍・実験器具・種子・農具などの輸入指導に当たり、農場経営を黒字にして実績を示すと共に、その成果をもって農業仮博覧会の開催、各地に出張して農家指導を行うなど多大の活躍を行い、いわゆる北海道農法の基礎を築いた功労者となった。そのため1919(大正8)年に日本農学会から名誉博士号を授与されているが、このような処遇を受けた「お雇い外国人」は数少ない。
 このようにブルックス教授は、クラーク帰国後に農黌園の場長となった際、現存する購入依頼文書のみを見ても明治10年から15年まで毎年数十点千数百ドルの農機具を輸入しており、これによって近代化農場の基礎を確立したと言える。これらの標本は少なくとも百点を超えるが、関係する注文リストから備品台帳までありながら、例えば2頭引再墾プラウの普通名詞的な記述ばかりで、個々に特定するに至っていない。左の図は、表題に「Machines and Implements added during 1887 to Sapporo Agri. callege Museum」とあるように、農具を博物館に収蔵する届出書の一部分である。1887年は、ブルックスが帰国する年に当たるから、帰国に際して利用を停止した農具を標本として博物館(焼き印は博物場)に保存したものであり、標本を保存する慣習を築いたと考えられる。なお、この博物場は、現在の植物園内の博物館を指すが、ここに収蔵した標本が何時農場に返されたかは不明である。


時任教授と農機具
 クラーク博士の直接の指導を受けた一期生の佐藤昌介は、1894(明治27)年に農学校校長に就任し、同校を文部省の直轄学校として今日の北海道大学への基礎を築いた。その基礎確立期に学生だった時任一彦は、新渡戸稲造教授の勧めを受けて母校にとどまり、ドイツ留学の後に泥炭地の研究で新渡戸の後継者となった。さらに1907(明治40)年に農科大学に昇格した際に農芸物理学講座を創設して教授となり、後に3講座に拡大する土地改良・農業機械・農業気象の基礎を築いたことから、今日の6講座からなる農業工学科の開祖と言える。
 ドイツ留学中の時任は、母校からの指示を受けて数々の農機具を購入し、ようやく経営基盤が確立して新たな北海道農法が生まれようとしている時の基礎技術を持ち帰った。また、帰国後は本業の土地改良や暗渠排水の研究に留まらず、それに関連する農機具や防風林などの研究も手掛けたから、例えば全国農業共進会において鍬類の審査委員長となり、その出品物の寄贈を受ける契機を作った。そのため、明治時代後半から大正時の農機具が数多くあるが、その中でも専門に関係する泥炭切り取り機や扱い機具、150丁を越える全国の鍬類の収集は国内に例を見ないであろう。また、ドイツ留学時に収集したと見られる深耕用のプラウは、ドイツで独特の発達をした装輪式の機種で標本価値が高いばかりか、第1次大戦を契機にして砂糖の国産化が課題になった時、従来より深く耕す必要が出て設計時のモデルになった形跡がある。このようにして農学校には世界の最新の農機具が続々と収集されるが、その標本群は、次項の常松が活動する際に貴重な研究資料となり、プラウとカルチベータで特徴付けられる北海道農法の源泉になった。


常松教授の普及指導
 農芸物理学講座を専攻して時任教授の指導を受けた常松栄は、1929(昭和4)年の卒業と同時に付属農場に研究用の鍛冶場を新設して貰い、教授の期待を担って未だ濫觴期であった農機具の研究に着手した。同所は1935(昭和10)年に農機具部となるが、農具から農業機械へと形態を変えながらも、今日までの60年間、農業機械の試作・開発を続けている場所である。常松は、ようやく定着した北海道農法のプラウとカルチベータの改良に取組み、プラウの三つの角度とサクションの関係を求めて北大型を開発し、ほとんどの鍛冶屋を巡って技術普及を行った。さらに成果は「北方農機具」として刊行されたが、時局の流れから満州開拓に不可欠の技術とされ、開拓総局の依頼を受けて幾度となく今日の中国東北部に出張した。さらに常松は、1949(昭和24)年に農業機械第1講座を創設して教授となり、今日の農業工学科の改組拡充に努力するが、それらの活動から「プラウの神様」の尊称を受けると共に、その研究のため国産プラウのみで150余台、総数で200台以上の標本を収蔵した。なお、先の図書刊行の際に専攻学生として支援をした岡村俊民は、常松の後を継いで教授となったが、任期中に下記の標本の再発見の時を迎えたため、稲機具を補充して稲作に関する一連の農機具標本をそろえた。さらにトラクター機械化時代に移ったことから、それについての研究を遂行し、その成果を「農業機械化の基礎」にまとめた。

標本の再発見
 先人が研究資料として収集してきた農機具は、収容場所が限られることから、次々と農場施設の屋根裏などに解体して詰め込まれて行った。そのため、農業機械講座や農機具部では、古くからの標本が三つの建物に収容されていると言い伝えながら、標本リストが分散していて内容は分からなかった。しかし、農場の近代化と理学部の拡大によって、現中央食堂から理学部数学系ビル一帯にあった明治大正期の第1農場施設が、1968(昭和43)年前後にポプラ並木西に移転し、古い木造建物が解体されることになって膨大な標本群が日の目を見る日が来た。
 農業機械講座で再組立と整理を行ったところ、国内に希有な標本群であると判明し、1976(昭和51)年の「北大創基100周年」に合わせて全面公開した。また、大学事務局は、この標本が重要文化財第2農場の建物と相応しい記念物と認定し、その内部に展示する許可を与えた。部分的に残る農学部と農場の備品台帳には、これら標本の多くが登録されているものの、明治初年から昭和期まで例えば「2頭引プラウ」と同じ名称で記録されているため、まだ由来の不明確な標本も少なくないが、これだけの資料が持つ価値は計り知れないものがある。



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