写真は現在のモデルバーン(右)、コーンバーン(中央)、収穫および脱ぷ室の状況(合成写真)
事務所
文化財入り口右手にある事務所は、1879(明治12)年に第2農場派出所の名で新築され、1910(明治43)年に現在地に移築した管理事務所であり、1980(昭和55)年に修復工事がされている。なお、同事務所は、現在地で新築されたとの報告もある。それらは1965(昭和40)年頃まで本部厚生課の建物として使った第1農場の事務所を当てて本編の派出所と異なり、さらに細目の調査を要する。
事務所は左の写真に示すように木造の切り妻造りで、間口7.5間、奥行き5間の平屋建てであり、外壁は板張りで全面ペイント塗装をしている。玄関左にある事務室の西側及び北側の二方をガラス戸引違として農場が一望でき、場内の監視目的にも使ったと思われる。内部は木摺漆喰仕上げ、天井はすべて竿縁天井となっている。
部屋の配置は、西向きの玄関に繋がる中央に土間廊下を設け、北側に事務所と実習室を取り、南側は玄関側に応接室、その奥に当直室と小使室を設けている。応接室と小使室の間には階段が設けてあり、屋根裏は書庫等の物置になっている。また、建物裏には、1.2間四角の便所が当時のままに独立して建っている。
現在は、文化財を守るガードマンの事務所として使われ、玄関に見学者の記録簿が置かれている。
種牛舎
種牛舎は、1879(明治12)年に新築された時、建増しの形でモデルバーンに隣接して建てられたが、1910(明治43)年に現在地に移築された際、分離して乾草を収納する2階を付けた独立家屋となった建物であり、繁殖用の種牛を飼育した場所である。

この牛舎は上図および詳細写真集のように長さ13.5間の総2階建で、切り妻造り、鉄板葺き屋根であり、屋根に6基の換気筒がついている。
建物平面は南側に幅2間、北側に1間幅の土間廊下を取り、中通りに6室の牛房を造っている。この建物は一般にどう猛な種牛を飼育するため、牛房の馬栓棒の外側に板扉を釣り込み、各間仕切りの板を厚めにしたり、窓ガラス戸は上部を突き出す開閉方式で外部との視界を遮断する等の工夫がされており、この建物だけ和風の小屋建てとなっている。

牧牛舎
この建物は、現在地に移転した1909(明治42)年に、当時の最新技術を使って新築され、1975-77(昭和50-52)年に修復工事がされている。建物正面図は、図に示すように左右対称で落ち着いた外観であるため、多くの人に好まれ、写真・スケッチの題材として多く使われるばかりか、十勝中札内村にある美術館のデザインにも使われている。
牧牛舎は詳細写真集のように南北棟の長さ19間の切り妻造りで、中央部の東西面に出入り口の突出部がある。屋根は人造石綿スレート茸で、8基の換気筒と屋根裏に採光のため4つの窓がある。屋根裏は乾草とその他の飼料置き場にするため、中央に柱をなくして空間を広く取った洋小屋構造で、南北方向に乾燥草搬送用ハンガーリフトの木製レールが付けてあった。2階への出入りは小屋の中央部に位置する開口部に取り外し可能な梯子を使って行うが、開口部に簡易な小屋掛け風の覆いを作って、作業中の転落事故を防ぐように配慮してある。
換気筒は1階床上から立ち上がった一本の木製ダクトであるが、内部は2分されていて半分は床上、半分は天井の下に孔が開いていて吸気と排気の役をしている。さらに別に、直接外部に接する給気孔と天井の排気孔もあって、換気を十分に行って乳牛が発散する温度や湿度を調整して健康に留意してある。これらの配置から、持に密閉されやすい冬場の給排気に十分留意した構造と読みとれる。1階は搾乳牛が向かい合って各10頭毎並ぶ対頭式の牛床が並んでいるが、左右の設備の種類を変えたり、向かって右側の床を高くするなどで形態が大きく異なるため、、両者で作業性の比較試験を行ったと推定される。
東側南寄りには、同時に建てられた「根菜貯蔵庫」が建てられており、ビートや飼料用のカブなど多汁質飼料を蓄えていた。また、東側北寄りには「緑飼貯蔵室」が同時に建てられている。これは後にサイロの名前で定着するが、当時は英名サイローと注記しながら、和名では緑飼貯蔵室としている。この建物は札幌軟石を使用した石造りサイロで、内径が約5mあり、飼料詰め込み容量は約195立方mもあり、当時としては最大級の石造サイロであった。屋根は円錐型で、東側に向いて切り妻造りの飼料投入口があり、先に示した写真のようにスチームエンジン駆動のエンシレージカッターでデントコーンを細断して吹き込んだ。1916(大正2)年には、隣接してコンクリート製サイロが増設されたが、文化財として修復工事の際に解体撤去されており、多くの画家やカメラマンから惜しまれた経過がある。
なお、農業用サイロについては、酪農の父と呼ばれる宇都宮仙太郎や町村敬貴がアメリカから帰国して説明したのが紹介の始まりと考えられる。国内に現存するサイロでは、盛岡市の小岩井農場にある煉瓦造り角形サイロが最古であり、次いでこのサイロが2番クラスと考えられる。また、この建物だけ建築当初から避雷設備が設置されていた。
モデルバーン(模範家畜房)
この建物は、帳簿上は「産室・追込み所及び耕馬舎」という名であるが、農場の構想を立てたクラーク博士は、北海道農業の模範となる願いを込めて「モデルバーン」と記載したことから、モデルバーンか模範家畜房と言う名の方が広く通用する。この建物は、クラークがマサチュセッツ農科大学農園の家畜房にならって、第2代教頭ホイラーに設計させたものであり、1876(明治9)年に新築されている。現在地には1911(明治43)年に移築され、1977-79(昭和52-54)年に解体して原状復帰をする修復工事がされている。
現在の建物は別の写真集に示したようであるが、桁行17間、梁8間半(設計と建築はフィート単位でなされ、実測すると 100ftx50ft の方が合致する)の切り妻造りの2階建で、延床面積が 555平方mの大きな木造建築である。1876(明治9)年に建てた最初の建物(第2農場の歴史概要のタイトル図参照)は地下室が設けられていて、そこは豚の飼育室、根菜貯蔵室と糞尿溜および肥料置き場に使用した。1階は、新旧の建物の共に牛馬舎で、46頭の成牛と育成牛室、10頭の耕馬室、7つの産室がある。2階には写真集にあるように馬車道を使って乾草運搬車が直接進入できるようになっており、その中央通路の両側に乾草室が設けてある。さらに3階に相当する床もあり、膨大な量の乾燥草が貯蔵できた。
しかし、明治43年の移築時には、移転場所の地下水位が高いために地階をなくし、向きを西側に面して建て、内部の模様替えを行っている。また、2階に直接に荷馬車を入れる連絡通路も、平地のために取り外された。建物の外部は1階を下見板張り、2階より上部は堅羽目板張り目板打ちである。
1階の平面図は、棟方向に対して直角に4つの通路を設けて用途区分を図っている。南端通路には廊下を挟んで向かい合わせに5室ずつの分娩室があり、中央2本の通路の内側には片側11頭の成牛を反対向きに並べる対尾式追込所を設け、各廊下のそれぞれの反対側には各6室の子牛を入れる育成室がある。さらに北側通路には北側に8室、南側に5室の馬房がある。
2階はほぼ移設前の構造を継承し、中央通路の両側を乾草置き場とし、2階通路の片側には1階通路の真上に乾草を落とすための穴が明けてある。2階の東北隅部には1部屋の穀物調製室があり、貯蔵槽から1階の飼料調製場に濃厚飼料を落とす装置がある。
屋根裏には、中央通路直上に幅約5mの乾草棚が設けて3階の形になっている。建物梁下には、牧牛舎と同様に乾草搬送用ハンガーリフトの木製レールが取り付けられている。また、屋外壁のレール直上には、牛の頭を写した彫刻が取り付けられている。